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まめまめ伊那谷日記

コサージュ

コサージュ
次女が小学校で作った、紙の「コサージュ」。
これをプレゼントされたとき、「卒業式には、これを付けていこう」と決めました。

私は、子どもがもっともっと小さかった頃、プレゼントしてくれる日々のもの。たとえば、母親を思い一心に拾ってきてくれた石ころ、
きれいな(子どもにとってはある一定の年齢まで自分の母親が一番美しいと思うものなのだ・・きっと)お母さんに似合うように、摘んできてくれる道端の草たち。描いてくれる絵。などなど。

そういった、日々のプレゼントを喜べない母親だった。
うまく喜べないのだ。
喜ばなくちゃ、と思うとますます喜べない。
絵など特に、「喜ばせたい」といったけなげな子どもの真意などが分かったりするとますます、喜べない。
(母親が喜ばないと分かると子どもは健気だから、母親が気に入るように、気に入られるよう(愛されるよう)なものを描こうと意識するのは自然なことで、条件付きじゃないと自分は愛されない存在なのだと考えるようになる・・・かな?それを子どもから感じるとさらに拒否反応)

「あぁ、私はそうなんだ」と、周りの若いお母さんたちとの関係の中で自分を知るものである。ともあれ、手放しで喜んだり面白がれる母親じゃなかった。それは、私の中で後悔という澱になって沈んでいて、時々何かと一緒に浮かんできたりする。
戻せるものなら、償えるものなら、と思う。

だから、紙のコサージュをプレゼントされたとき、これを付けていこう。そうしたらきっと、次女は喜ぶ。そして、コサージュを付けた私は、一日中晴れやかだった。(紺のパンツスーツは、長女が卒園の時に購入したもの、確かそう。それが着られるって。。いえ自慢じゃないです、別に。11年間まったく体型が変わってない、ってことなんですけどね。いえ、自慢じゃないですよ、決して。そのパンツスーツによく似合った、という話がしたいわけで・・)

母親の後悔の念を少しでもほどいてくれる子どもの存在。こんなに時間は経ってしまったけれど、やり直すチャンスをくれるその存在の大きさ。ただ存在するだけでこんなに力をくれるなんて、知らなかった。
きっと遅くない。

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